2015年2月12日木曜日

試みに会わせず

おはようございます!

◆今日の聖書◆
だから、こう祈りなさい。「・・・私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」・・・(マタイ6:13)

◆どういうこと?◆
「試み」という言葉は、「誘惑」という意味でもあります。神がボクたちの内側にあるものを明らかにするときには「試練」と訳され、サタンがボクたちを攻撃するときには「誘惑」を使います。しかし「試み」には、いつも両側面があるということを心に留めておくべきでしょう。

試練を通してボクたちは成長しますが、そこにはいつも誘惑があります。そして誘惑の中にはいつも罠があるのです。「試みに会わせないでください」という祈りを通して、ボクたちのたましいは罠を見分け、弱さを自覚し、誘惑から遠ざかる知恵を得るのです。それでもなお与えられる「試み」は、神からの「試練」として、神により頼みながら戦っていくべきものなのです。

祈りはあなたを守ります。神は、ボクたちの弱さをよく知っているので、このような祈りを教えてくださったのです。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、私を試みにあわせないでください。罠を見分け、誘惑から遠ざかる知恵を与えてください。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年2月11日水曜日

仕返しは無意味

おはようございます!

◆今日の聖書◆
もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。(マタイ6:14)

◆どういうこと?◆
今日も「赦す」ということについて、考えてみましょう。

こう考える人はいませんか?「赦せというけれど、ひどいことをされて仕返しをしたくなるのは間違いなのでしょうか?」いいえ、仕返しをしたいと思うことは問題ではありません。ただ、問題はほとんどの場合、自分が悪いことをされた結果奪われたものを取り返すのは不可能だということです。

子供を捨てた男性が、自分の奪ったものを子供に返せますか?両親の生活を何年間もめちゃくちゃにしてきた息子は、両親から奪ったものを返せるでしょうか。試合で削って怪我をさせた人が、相手選手が失ったものを返せるでしょうか?

過去はどんなことをしても取り戻せません。傷ついた経験には、謝罪や経済的な賠償をしてもらったとしても、埋め合わせられない気持ちの問題が伴います。

仕返しによっては何も解決しません。自分自身の心が癒されるためには、赦すことによって自分からその権利を手放す以外ないのです。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、仕返しを求めるのではなく、赦すことができますように。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年2月10日火曜日

赦すことを学ぶ

おはようございます!

◆今日の聖書◆
だから、こう祈りなさい。「・・・私たちの負いめをお赦しください。」(マタイ6:9,12)

◆どういうこと?◆
「赦す」ということについて、引き続き見ていきます。

あなたは心に怒りをかかえていませんか?怒りとは「あいつは俺に借りがある」という態度のことです。誰かが自分に悪いことをした、だから当然私もお前に仕返しをする権利がある、というような心の思いのことです。

しかし「怒り」が心にとどまると、今度はその怒りがあなたを支配するようになってしまいます。なんだか怒りっぽい人っていますよね?怒りの感情が自分を支配するようになると、極度の被害者意識に襲われ、うまくいかないことの理由を「あいつのせいだ」と思い続けたり、自分の悪い行動を自己正当化したりし始めます。

でも「赦す」とは、相手に仕返しをする権利を手放すことです。権利を手放したら、損するんじゃないかって?とんでもない。赦さないことによって損しているのは、あなた自身なのです。どんなに相手を責め続けても、お金で償わせても、ぶん殴ってみても、あなたが赦すという行為を取らない限り、あなたはそこから解放されることはありません。だから、ボクたちはどのようにして赦すかを学ばなければならないのです。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、怒りが心を支配することがないように、赦すことができる力を与えてください。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年2月9日月曜日

許しと赦し

おはようございます!

◆今日の聖書◆
だから、こう祈りなさい。「・・・私たちの負いめをお赦しください。」(マタイ6:9,12)

◆どういうこと?◆
ゆるしには2種類の漢字があります。「許し」と「赦し」です。

「許す」というのは、許可することです。このグラウンドを使うことを許しますとか、学校に入学することを許しますとか、相手の申し出を認めることです。

一方、「赦す」というのは、相手の罪をとがめないことです。その罪を水に流すということです。相手から悪いことをされた時、「いいよ、ゆるしてあげる」と言ったとします。でもそれは水に流してあげるということで、相手に悪いことをしてもいいよと許可を与えることではないですよね。だから、この場合の「ゆるす」は本来「赦す」が正しいです。

でも、ボクたちは簡単には人を赦せないものです。自分をいじめたあいつのことを赦せますか?自分が虐待されていたとして、その人のことを簡単に赦せますか?逆に、いつまでも「オレの人生をめちゃくちゃにしたのはあいつのせいだ」と、赦すどころか恨みで心がいっぱいになってしまうのではないでしょうか。ボクたちは、自分の力で人を赦すことは出来ないのです。

でも、赦せない心は自分の人生を窮屈にしてしまいます。赦さないことで損をするのは自分なのです。でも、神様には不可能はありません。私も、イエス様の十字架の愛で赦されたのだということが分かってくると、自分も人を赦すことができるようになるのです。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、あなたの赦しの恵みを感謝します。私にも赦すことができる力を与えてください。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年2月7日土曜日

私たちの負いめ

おはようございます!

◆今日の聖書◆
だから、こう祈りなさい。「・・・私たちの負いめをお赦しください。」(マタイ6:9,12)

◆どういうこと?◆
「負いめ」とは「負債」のことです。負債とは返さなければならない借りがあるということです。ボクたちは、神様に対して返さなければならない借りがあるというのです。では一体その返さなければならない借りとは、何でしょうか?

それは、ボクたちの「罪」です。みなさんの中には、自分は特に大きな罪を抱えていないと思う人もいるでしょう。でも、罪は大小の問題ではありません。キレイな水に一滴でも汚水が入っていたらもはや飲むことが出来ない水になってしまいます。同じように、罪はどんなに小さいように見えても、人を汚すものであることに変わりありません。あなたにはどれだけ自分の罪が見えているでしょうか。

罪には死の刑罰が伴います。しかし、ボクたち誰一人としてその代価を払い切ることは出来ないのです。しかし、イエス様がボクたちの罪の身代わりとして十字架の上で死んでくださったことを通してボクたちの罪は赦されたのです。

ボクたちにできることは、新しく自分自身の罪に気付かされたとき、それを神様の前に告白して主に赦しにすがり続けることだけです。でもそうするならば、神様はその瞬間にその罪を赦し、あなたをきよめて、いのちの道へと再び導いてくださるのです。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、私は罪人です。私を赦してください。私がもっと自分自身の心に敏感であることでできますように。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年2月6日金曜日

お与えください

おはようございます!

◆今日の聖書◆
だから、こう祈りなさい。「・・・私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」(マタイ6:9,11)

◆どういうこと?◆
日ごとの糧とは、文字通り毎日食べる食物のこと。ボクたちが生きて行くために食べ物はどうしてもなくてはならないものです。イエス様は、それらが与えられるように祈りなさいと言われるのです。

でも皆さん、食べ物が与えられるのなんて当たり前だと思っていませんか?あえて切実に祈らなくても、特に困ることはないと思っていませんか?・・・確かに現代の日本で食料に困っている人はほとんどいないでしょう。

でも、実は長い歴史を見るとそんな時代は稀です。もし、与えられていることが当たり前だと考えるなら、あなたの心には感謝ではなく不満が満ちていきます。まだ得ていないものを要求するようになります。いつまでも満たされることはありません。

目を世界に向けるなら、今でも食べるものが手に入らず飢餓に苦しんでいる方々が大勢いるのです。「私たちの日ごとの食物」のために、言われています。あなたが、彼らも「私たち」の中に招き入れるなら、この祈りは切実なものになるでしょう?まずは、自分に与えられている恵みに感謝して、そのような方々にも思いを向けていきましょう。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、与えられている恵みを感謝いたします。今日も私たち一人一人に生活に必要な食物を与えてください。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年2月5日木曜日

みこころが行われるように

おはようございます!

◆今日の聖書◆
だから、こう祈りなさい。「・・・みこころが天で行われるように地でも行われますように。」(マタイ6:9,10)

◆どういうこと?◆
「みこころ」とは、神様の心です。神様は、天も地もすべてのものを、みこころによって造りました。すべてのものは造られた目的があり、すべてのものは父なる神の力で支えられています。

「天」とは、そのみこころが完全に行われているところです。神様が支配しておられる、神様の王国です。父なる神の右にはイエス様がおられ、無数の天使たちがみこころのままに仕えています。

しかしこの地は、神のみこころが完全に行われているとはとても言えない状況です。心にイエス様を受け入れ、信じて歩んでいるボクたちに与えられている使命は、この地においても神のみこころが実現するように仕えることです。

どのようにして?
まずは自分自身が、神のみこころに従って歩んでいくことを求めていきましょう。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、みこころが天で行われるように、私もみこころに従って歩み、この地に神の国を拡げていくことができますように。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年2月4日水曜日

御国が来ますように

おはようございます!

◆今日の聖書◆
だから、こう祈りなさい。「・・・御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」(マタイ6:9,10)

◆どういうこと?◆
神様の王国が「来るように」とはどういうことでしょうか。

イエス様が十字架の上で死んでよみがえってくださり、神様の王国は回復しました。そして、信じた私の心は神様によって治められています。しかし、この神の国の領域はもっと広げられなければいけません。

第1に、私の心の中でその領域を増やす必要があります。神様を信じたけれど、まだ信じきっていない部分が心の中にありませんか?それは王様が自分の心を支配することを拒否して締め出していることになるのです。イエス様を心の隅々にまでお迎えするなら、この世のものとは違う平安がボクたちの心を満たすのです。

第2に、私が関わるすべてのことの上に神様の国が広げられる必要があります。あなたの家族、あなたの友達、あなたの学校、その他あなたが関わるすべての人。イエス様は、彼らの心も神様が治めてくださるように祈りなさいと言っておられるのです。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、あなたの王国が来ますように。私の心の中に。この地上でのあらゆる人々の心の中に。主の平和が実現しますように。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年2月3日火曜日

神の王国

おはようございます!

◆今日の聖書◆
だから、こう祈りなさい。「・・・御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」(マタイ6:9,10)

◆どういうこと?◆
御国とは、神様の王国のことです。王国とは、王様によって統治されているところのことをいいます。

誰でも一度は、「自分は王様になりたい」と思ったことがあるのではないでしょうか。王様は一番偉くて、金持ちで、贅沢をしていて、わがままを言い放題で、しもべたちが何でも言うことを聞いてくれる・・・。でも、そんなの本当の王様ではありませんね。もしあなたの国の王様がそんなだったら、誰が王様に従いたいと思うでしょうか。

本当の王様は、すべての国民のいのちと生活に心を配り、知恵と力を尽くして国民のために戦い、すべての責任を引き受け、国に安定をもたらすために日々尽力するものです。

神様がわたしたちの心を治める王様です。神様はふんぞりかえって贅沢をしている王様ではでなく、むしろボクたちのために貧しくなり、ボクたち身代わりとなって命を差し出してくださった方です。

神の王国とは、ボクたちの心をこの神様に治めていただくことです。神の王国は、ボクたちが心を開くとき、すでにそこにあるのです。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、あなたの王国が来ますように。私の心の中に。この地上でのあらゆる人々が守られ、支えられるために。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年2月1日日曜日

父よ

おはようございます!

◆今日の聖書◆
だから、こう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。・・・(マタイ6:9)

◆どういうこと?◆
赤ちゃんが生まれ、その子が少しずつ言葉を喋れるようになり、自分を慕って声をかけてくれる時の喜びを想像することが出来るでしょうか。「パパ〜!」幼子は、パパを信頼しきっていて、パパがそこにいてくれているので満面の笑顔です。

父なる神様は、実はボクたちにそれと同じような関係を求めておられます。イエス様が個人的に「父よ」と呼びかけるときには、「アバ!」という幼児語を使っていました。これは「パパ」と同じように用事が父親に甘えて使う呼び方です。ボクたちも、父なる神様を、「アバ!」と親しみを込めて呼ぶことが許されているのです。

祈りとは、最も個人的な親しい関係です。

もちろん、実際に口に出す言葉以上に、そのような関係、そのような心で神様の前に出るようにと教えられているのです。信じて心にイエス様を迎え入れた人は、心の中から父なる神のことを「アバ、父よ」と最も親しい関係として祈ることが出来るようになります。神様は、ボクたちが100%神様に信頼しきって求めるのを喜んでくださるのです。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、アバ、父よ。私も神の子として100%あなたに信頼しきって歩むことができますように。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年1月31日土曜日

天の父よ

おはようございます!

◆今日の聖書◆
だから、こう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。・・・(マタイ6:9)

◆どういうこと?◆
私たちの祈りは、天に届く祈りです。

地上にいるボクたちは、罪にまみれ、いつも弱さや苦しみ、試練の中で戦っています。しかし、ひとたび「天にいます私たちの父よ」と呼びかける時、ボクたちと天との間はつながり、神様の前に近づくことができるのです。

本来、罪人であるボクたちは天の神様との交流はできません。しかし、罪のないお方であるイエス様がボクたちのために身代わりとなって死んでくださったことにより、イエス様を通してのみ天との交流ができるようになったのです。だから、祈りはイエス様の名前によってささげるのです。

この地上で、自分の心がどんなに暗闇に押しつぶされそうになっていても、「天の父よ」と呼びかける時、新しい世界が目の前に開かれていくのです。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、天の父よ。私があなたの前に出れる特権を感謝します。どうか地上のものでなく、天のものに目を留めて歩んでいくことができますように。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年1月30日金曜日

私たちの父よ

おはようございます!

◆今日の聖書◆
だから、こう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。・・・(マタイ6:9)

◆どういうこと?◆
イエス様は「私たちの父よ」と祈るように教えられました。

父なる神は、あなたの父であると同時に、すべての人の父です。主の祈りは一致の祈りであって、人と心を合わせることがなければこの祈りはできないのです。

父なる神の前に出るときに、ボクたちは心が探られます。心を合わせられない仲間はいないでしょうか?どうしても受け入れられない人はいないでしょうか。赦せなかったり、関係がギクシャクしている人はいないでしょうか。

サッカーでも、チームが一致していなくてどうして力を発揮できるでしょうか。もしボクたちが心を合わせ、心を一つにして祈り、主の前に出ることが出来るなら、父なる神はそれを喜び、大いなるわざを現してくださいます。ボクたちは、まず一致を求めるべきなのです。

人間の努力によっては難しいこともあります。しかし、神様のあわれみによってそれは可能になります。主のあわれみを求めていきましょう。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、私たちに一致を与えてください。心を一つにしてあなたに求めるために、あなたのあわれみを注いでください。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年1月29日木曜日

祈りなさい

おはようございます!

◆今日の聖書◆
だから、こう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。・・・(マタイ6:9)

◆どういうこと?◆
普通、身分の高い人や偉い人と話をするのはとても難しいことです。日本人だからといって、天皇や総理大臣と簡単に話すことは出来ませんし、アメリカ人だからといって大統領と会話できる訳でもありません。

しかし彼らよりもはるかに偉大な方、全能の神、父なる神とは、誰でもいつでもお会いすることが出来るのです。いや、むしろ神様はあなたとの会話を望んでおられるのです。

イエス様は「こう祈りなさい」と、ボクたちに勧められました。ここから続く聖書の箇所は、「主の祈り」と呼ばれる有名なところです。これを形通り祈ることも大切ですが、この中でイエス様は、祈りの本質を教えてくださっています。

でも「こう祈らなければいけないのでは」「正しい祈り方を知らない」と恐れる必要はありません。イエス様は、とにかく「祈りなさい」と促しておられます。あなたが祈り始めるなら、もっと祈りを知ることができます。祈りを楽しむことが出来るようになります。祈りが力になり始めます。

どんなことばでも構わない。とにかく毎日祈ってみませんか。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、もっと祈りを知ることが出来るように、まずは祈るという良い習慣を身につけていくことが出来ますように。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年1月28日水曜日

必要なもの

おはようございます!

◆今日の聖書◆
あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイ6:8)

◆どういうこと?◆
私たちに必要なものとは何でしょう?

父なる神は、それをすでに知っておられるというのです。ではボクたちは、自分自身で本当に何が必要なのか知っているでしょうか?

ボクたち人間は、今欠けていると感じているものを満たすことしか考えられないものです。ですから、「求めなさい、そうすれば与えられる」と言われても、自分の人生で本当に必要なものは何か、はっきりと分かって求めることができる人は意外と少ないのではないでしょうか。熱心に祈ることを神様はボクたちに求めておられますが、ハッと気がつくと、自己中心な祈りばかりしていることがあります。

父なる神は、ボクたちに必要なものをよく知っておられます。ですから神様は、「あなたのすべての必要を満たす、わたしのことを知りなさい。」とボクたちを招いておられます。

これからは、もっとあなたのことを知ることが出来るようにと求める祈りを始めてみませんか?

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、自己中心的な祈りでは、本当に自分に必要なものを求めることはできません。もっとあなたのことを知ることができるように助けてください。そうすれば、私に必要なものはすべて満たされるからです。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年1月27日火曜日

知っておられる

おはようございます!

◆今日の聖書◆
あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイ6:8)

◆どういうこと?◆
神様は、私たちが祈る前から私たちに必要なものを知っておられます。もし、神様が私たちの必要をすでに知っているのなら、どうして私たちは願い事を祈る必要があるのでしょうか。

第1にそれは、神様ご自身がそれを求めておられるからです。神様は、ボクたち自身が自分から神様に求め、神様に頼ることを望んでおられます。神様は、ここに書かれているように「父なる神」です。ボクたちのお父さんは、その子どもたちとの会話を求めているのです。

第2にそれは、ボクたち自身のためです。祈りは単なる願い事以上のものです。祈るとき、ボクたちは心が満たされます。平安が与えられます。力が与えられます。勇気が湧いてきます。喜びに満たされます。祈りは神様との交わりですから、祈ることによって神様のご性質がボクたちに注がれるのです。

祈りは、ボクたちにとってなくてはならないものなのです。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、祈りを通してもっとあなたの愛と平安と力を経験できますように。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年1月26日月曜日

奥まった部屋で

おはようございます!

◆今日の聖書◆
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6:6)

◆どういうこと?◆
あなたは、毎日の生活の中で特別に祈る時間を持っているでしょうか?

今の世の中はとてつもないスピードで動いていて、歳を重ねるごとにどんどん忙しくなっていきます。そのような生活の中で、心まで忙しくなりがちです。「忙」という字は、心を亡くすと書きます。ボクたちは心が健康に保たれる方法を学ばなければなりません。

神様との交わりは、忙しさの中で私たちの心が守られる大切な時間であり、神様の奇跡を目撃するための大切な整えの時です。義務ではありません。この時間をあなたが大切にするなら、あなたの人生は間違いなく豊かに祝福されるのです。

イエス様は、誰も見ていない所で祈ることを勧めています。祈りとは、神様との1対1の交わりなのです。神様は、あなたと個人的に語り合うことを楽しみにしておられるのです。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、あなたとの個人的な祈りの時間を大切にすることが出来ますように。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年1月25日日曜日

報い

おはようございます!

◆今日の聖書◆
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(マタイ6:1)

◆どういうこと?◆
私たちは世界の光として、良い行いで人々を照らす存在です。しかし、その良い行いの動機が問われています。あなたの良い行いの動機は何でしょう。人に認められたいからですか?感謝されたいからですか?それとも自己満足で自分を誇りたいからでしょうか?

良い行いとは、自分をアピールすることではありません。サッカーでは、自分の最大のパフォーマンスをチームできるようにアピールしなければならないこともあるでしょう。でもそのような競争の中にあっても、もしそれだけが本当にあなたの動機なら、それ以上の成長は期待できません。チームや監督に認められただけで、あなたは満足してしまうでしょう。

目標はもっと高いところにあり、良い行いはもっと身近な日常の中にあります。最高の報酬は神様が与えてくれます。神様は、人々に見せるためでなく、見えないところで行った良い行いに心を留めてくださるのです。

あなたは、人々が見ていない時、どのような存在でしょうか?コーチや親、指導者などが見ていない時にも、良い行いを実行することが出来ているでしょうか?自分の動機をいつも点検していきましょう。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、私が良い行いをするとき、人に認められたい、感謝されたいという思いがあります。でも、人の目を気にするのではなく、どんな時でも神様に目を留めて、隠れたところで良い行いをすることが出来ますように。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年1月24日土曜日

完全であれ

おはようございます!

◆今日の聖書◆
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)

◆どういうこと?◆
人間の行うことに完全はありません。しかしイエス様は私たちに「完全でありなさい」と語られています。それはどういうことなのでしょうか。

すでに見てきたように、ボクたちは自分の力でどんなに努力しても完全になることはできません。しかし、逆説的ですが「自分の力では完全にはなれない」と知ることこそが、完全であることへの第1歩なのです。人は、自分の無力さを悟って初めて自分を超える力を求めるようになります。そしてその時に初めて、唯一完全であるお方である、イエスキリストに対して目が開かれるのです。

あなたを完全なものとするのはイエス様です。ボクたちの愛には限界があります。しかし、イエス様の愛は完全であり、限界を超えるものです。究極的にはボクたちは誰一人、死という壁を乗り越えることはできません。しかしイエス様は、死を打ち破り、よみがえられました。そして、その復活のいのちをボクたちに与えてくださるのです。

完全であるために必要なのは、イエス様の十字架だけです。イエス様を心に迎え入れ、十字架の愛を思い起こしながら、日々従っていく決心をしていく。その時に私たちも、一歩ずつ造り変えられていくのです。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、私の力では完全になることはできません。しかし、だからこそ、完全なお方であるあなたのことを求めます。私を少しずつ作り変えてください。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年1月23日金曜日

よりまさる義

おはようございます!

◆今日の聖書◆
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(マタイ5:20)

◆どういうこと?◆
「義」とは、基本的には「正しいこと」という意味です。もし、私たちが当時の宗教家よりも正しくなければ、天国にいくことができないとイエス様は言われます。そんなこと、出来るのでしょうか?

当時の宗教家の義とは「自分を正しいとするための努力」です。間違いを犯すことがないように人間的な努力をしていましたが、最終的には自分を誇るためのものでした。

ではそれにまさる義とは、何でしょうか。それは「イエス様の十字架」です。イエス様の十字架は、完全な愛と完全な義の象徴です。これは人間の努力によっては得ることができない、神様からの一方的な愛の贈り物なのです。

わたしたちは、当時の宗教家たちと同じように、自分の努力で自分を誇ろうとしても、彼らの義にまさることはできません。しかし、イエス様を信じることを通して、特別な恵みとしての義を受けるなら、私たちは救われ、生き方が変えられるのです。そして感謝にあふれて天の御国に入るのです。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、イエス様の十字架によって与えられた完全な義を感謝します。自分を誇ろうとするのではなく、あなたに感謝して毎日を過ごすことが出来ますように。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!

2015年1月22日木曜日

成就するため

おはようございます!

◆今日の聖書◆
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)

◆どういうこと?◆
律法とは、私たち人間が守るようにと定められた神様の教えです。

でも人間には罪があり、それらの全てを完璧に守ることは出来ません。しかし、律法学者と呼ばれる当時の宗教家たちは、自分たちに都合のよいルールを別に作り、それを守れば律法を守ったことになると主張しました。その結果、自分たちはルールを守っている偉い人で、守っていない人は罪人だと言って、見下すようになってしまいました。でも、実際には自分たちのルールにこだわって、神様の本当のみこころを守ることができなくなっていたのです。

イエス様は彼らとは全然違いました。彼らのルールを明らかに破っているように見えるのですが、実は、神様が定められた本来の律法を完全に成就していたのです。律法学者にはそのことが理解できず、イエスに対するねがみから、自分たちのルールを破っているイエスは神の律法をないがしろにしていると主張したのです。

イエス様こそが、100%神様の心を反映されたお方です。だから、ボクたちの目標は、何かのルールを守る事以上に、イエス様の愛の生涯に従っていくことです。それこそが、本当の神の律法にかなうことなのです。

◆ひとこと祈ろう◆
「神様、私もイエス様の愛の姿にならうことができますように。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン。」

Vamos Esperanza!